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遊べる印鑑

よく誤解されることなのですが、私自身、郵貯が肥大化することには批判的でしたが、民営化自体を否定していたわけではありません。 民営化という事業は、たんなる金融業界の話ではなく、日本の国の形を変える国家的な挑戦です。
ですので、引き受けた以上は、周りから何と言われようとも、全力でがんばる決意でした。 そうですね。
周囲から言われるだけでなく、自分でも自覚しています。 しかも、生来、気が短い性質です。
小学生の頃も、母親から「お前はその短気な性格を直さなければいけない」「気に入らないと、すぐに顔に出る」とよく叱られました。 銀行時代にも、よく部下を叱り飛ばしていました。
言い訳するつもりはありませんが、期待できる人こそ叱っていたのです。 負けるわけにはいかないし、絶対に負けたくはない。
自分がこうしたいと思うことをやるのが、ずっと私の生き甲斐でした。 一度は表舞台から退いた私に再びこんな機会を与えていただいたのは、大変ありがたいことです。

就任発表の記者会見で「身に余る光栄」と申し上げたのも、そのような思いからでした。 待できない人には叱りもしなかった。
とはいえ、叱ったあとは、「しまったな」と思うことがしょっちゅうでした。 叱ったこと自体は後悔しないのですが、「もうちょっと言い方があったな」と思うことはよくあった。
S銀行で企画部長をしていたときは、ある部下に「机持って出て行け!」と怒鳴ったこともありますから。 そんなときには、あとでフォローをしていました。
何気なく叱った相手に近づいていって「今晩、空いているか?」と飲みに誘ったりしたものです。 物心ついたときから、私には、「人間は進取の気概を持ち続けなければならない。
常に新しいことにチャレンジしていくべきだ」という思いがありました。 そんな勝気な性格は、人生の節目で、よりはっきりと表に出てきたように思います。
今回もそうでしょう。 一緒に仕事をしてきた仲間や家族など、とばっちり受けた人には申し訳ないのですが、私としては、その性格がバネになって、これまで直面した多くの修羅場を乗り越えることができ、人生を切り開くことができたのだと思うのです。
私の生家は奈良県橿原市にあります。 そこで193O年10月3日、長男として生まれました。
国民学校への入学は1945年春。 それから4カ月後の8月に敗戦を迎えました。

学校制度が変わって、国民学校は小学校へと変わりました。 今の子どもたちのように、好きなものを買ってもらえるとか、お小遣いをもらって好きなものを買うというようなことはほとんどできなかった時代です。
奈良県の田舎なので、農家であれば食べ物はありましたが、私の家は農業を営んでいなかった。 吉野でとれる木材を扱う材木商でした。
そのため、少年時代は食べ物に非常に苦労したという思い出があります。 それでも、毎日楽しく、夢中で遊んでいました。
学校から帰るとすぐに家から飛び出して、近所の同じ年頃の子どもたちと一緒に、竹バットと母親が作ってくれた布製のグローブで、暗くなるまで野球をしていました。 橿原神宮の周囲には大きな公園、野外公会堂のほかに、陸上競技場、野球場、テニスコートなどがあり、野球は、その公園の一角でやっていました。
公園には小川がいくつか流れていました。 今はきれいではありませんが、当時は、それはもう大変にきれいな小川でした。
その小川で魚捕りをやっていたのも、よく覚えています。 腕つぶしが強くなかったのでガキ大将ではありませんでしたが、仲間うちでも、負けん気が強いヤシで通っていました。
少年時代は漠然と、将来は大学の先生になりたいと思っていました。 別に勉強が好きだったというわけではないのですが、大学の先生という存在に憧れていたのだと思います。

奈良県には当時、奈良女子大学と、旧師範学校の学芸大学、県立医科大学くらいしか大学はなく、大学というのは、まだ特別な存在でした。 友だちのお父さんが県立医科大学の先生をやっていて、近所に住んでいました。
ときどき、その家に遊びに行って、「大学の先生は格好がいいな、偉いのだな」と子ども心に思ったものです。 大学の先生になろうという気持ちは、大学に入ってすぐ変わってしまいました。
一つのことをじっくりと深く掘り下げ、たとえば法律の一語の解釈をめぐって議論を続けるような研究者の生活は、自分には向かないと思ったからです。 当時、かなり本気で考えていたのは、新聞記者になろうということでした。
今から思えば、新聞記者の内実などまったく分かっていなかったのですが、記者になれば、世の中全体の物事を幅広く見ることができると思っていました。 政治家や経営者や学者や、ときには有名な外国人などにまで会って、堂々と取材し、論陣を張るという記者のイメージは、カッコよく、とても面白そうに思えました。
新聞社への就職は当時から競争率が高かったのですが、特に熱心に採用試験のための勉強をしていたわけではなく、落ちたら落ちたで何かあるだろうと思っていました。 今の大学生に比べれば、何とも暢気なものです。
当時、一般の学生が就職活動を始めるのは大学4年の夏休み頃でした。 ところが、マスコミの試験はスタートが遅く、新聞社の試験は如月からでした。
そこで私は4年の夏休みは奈良の自宅に帰って、何をするでもなく過ごしていました。 そんなある日、大学の友人が「お前、ちょっと大阪に出てこないか」と電話をかけてきました。
何のことか分からないまま聞いていると、「一緒に行きたいところがある」と言う。 「どこへ」と尋ねると、彼は「自分はS銀行から内々定をもらっていて、S銀行からまだ就職先が決まっていない学生を誰か連れてこいと言われている」と言うのです。
せっかく内々定をもらった友人の顔を立ててやりたいという気持ちもあり、私は「それじゃ、行ってみるか」と冷やかし半分の気持ちで、大阪に出かけることにしました。 そして、S銀行に行ったところ、なんと、いきなり人事部長が面接すると言う。

これにはさすがに驚きました。 そのときの人事部長は、のちの頭取、Iさん。
これがIさんと私の初めての出会いでした。 細かいことは忘れてしまいましたが、いくつか質問をされたあと、Iさんは誰かを呼んで「専務は空いているか」と言っている。
人事担当専務がいるかどうかを確認しているわけです。 「専務がいるから、すぐに専務に会え」と。
こちらは、軽い気持ちで行ったので、Tシャツか何かを着ているという格好です。 当時は就職活動の際、今のようにスーツを着込むというようなことはなかったけれども、それにしても、汚い格好だったはずです。
それでも専務に会えと言うので、言われたとおりに専務のところに行くと、いきなりとに負けてたまるかという気持ちが湧いてきて「そうですか。 競争は望むところですね」と大見得を切ってしまった。
あとは、何やかやと聞かれ、浅井専務が「分かった」と言って、面接はそれで終わりました。 帰り際に、I人事部長から「君、内定したからな」と突然言われてしまった。
なんだか、事態がよく飲み込めませんでしたが、「こうなったらどうしようもない、銀行に行くしかないな」と思いながら帰宅して、父親に「S銀行に内定した」と報告したら、父親は「そうか」ととても喜びました。


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